「休憩の効果、効果的な休憩のとり方」のまとめになります。
カテゴリー: 生産性・業務効率化
定期的に話題にあがる、とあるテーマがあります。
“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?というものです。
特に昨今は、世代間の格差も広がっており、ネット上で度々議論がされています。
最近ですと、「オレたちの若い頃はもっと働いてた」と言っても資料のホチキス留め対応とキンコーズに駆け込む的なことに時間を使っていて、それは実のある働き方だったのか?という指摘を目にしました。
今回は、この種のテーマについて思うことを書いていきます。
“労働時間”自体は大きな変化がない
まず、大枠のデータですが、トータルとしての“労働時間”は今も昔もそれほど大きな差はありません。
(ここで言う“労働”とは、家事・育児・介護にかかる時間も含めた、大きな意味で可処分時間を取られるもの、としています。少なくとも、現代の認識で家事・育児・介護を仕事では無い、とは捉えないでしょう。)
家庭や職業、住む地域等々で当然に状況は異なるにせよ、マクロ感では、数十年前も今も、同じようなイメージです。
では、何故、“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?という話題が出るのでしょう?
(「今の若者は云々」という話は、古今東西共通の話題なので、それはそれとして捉えるとして。)
情報過多社会
まず、“今”と“昔”で大きく異なるのが情報の量です。
「現代人が1日に受け取る情報量は江戸時代の1年分だった!?」という記事が出る位、現代社会は情報に溢れています(言うまでもないですね)。
学術的には「情報爆発」として、現代社会が数十年前に比べてどれだけ情報が飛び交っているのかが議論されています。
その結果として、人々は「情報疲労」を起こし、非常に疲れやすくなっている、という指摘が出ています。
仕事の密度が増している
また、仕事の密度が“今”と“昔”で全く異なる、という指摘もあります。
冒頭の資料のホチキス留めとキンコーズへの駆け込みもそうなのですが、現代では資料をGoogleドライブにアップしてURL共有をすれば、関係者への資料送付が完了してしまいます。
郵送等をするまでもなく、また、わざわざ重い資料をメールで送る必要もありません。
資料の捜索も検索をかければ出てくるため、資料室等々に行って資料を漁る時間も大きく不要になりました。
その資料作りもGoogleスライドを作れば関係者で同時編集ができますし、様々なクラウドサービスと連携すれば、必要なデータも簡易に作成できるようになりました。
パソコンのスペック(仕様ではなく性能の意)もかなり上がっているので、これまで丸1日とかかかっていたデータ処理がものの数分で終わるようなことも珍しくありません。
Web会議を用いれば、1日10件近い“濃厚な”営業も可能ですし、可能な故に訪問の合間のブレイクタイムも取れない場合もあります。
列挙すれば切りがないのですが、この通り、仕事の密度が“今”と“昔”で全く異なるのです。
脳のリソースには限界があるので、こなす仕事の質的量が膨大ならば、当然に疲労感は昔よりも増すはずです。
ITの発展により業務時間外も“拘束”される
(一部、上述の内容と被りますが)近年はITの発展により、即時に濃度の濃い情報をやり取りすることができます。
こちらの記事で触れたのですが、勤務時間外のメールは従業員の身心に悪影響を及ぼす、ということがわかっています。
目に見えない“拘束”は、そのまま見えない労働時間となり、労働者を疲弊させます。
一昔前もポケベルのようなものはありましたが、即時性と拘束性は近年のチャットツールと比較するまでもないでしょう。
ほんの一例ですが、これらのことを踏まえると、現代社会の大変さがわかります。
他にも、人口動態(若者一人あたりの負担の話とか)や経済成長の停滞という面でも考えると、閉塞感について触れることもできます。
未来はもっと大変になるかもしれない、と考えると無意味な議論では?
こでまで見てきたことを考えると、“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?の答えは“今”であると言えるでしょう。
ただ、ここで端的に言い切ることが適切か?というと違うのではないかとも思います。
大変さと一口に言っても、その時代時代の相対的なものであり、昔は昔の大変さがあったし、今は今の大変さがあると考えるのが適切であると考えられるからです。
また、“今”は“昔”より大変なんだ、という話を上述の事例とロジックを踏まえて言うならば、未来の方が大変である可能性が考えられます。
(AIも発展して、わざわざ人間がやらなくても良い仕事が激減した結果として、また業務効率化も極限まで進んだ結果として、その社会で働く労働者たちの疲弊度合はどれくらいのものになってしまうのか?)
つまり、“今”の大変さを訴えること自体は悪くないのですが、その訴え方次第では未来時点で自分の首をしめることにつながり得ます。
(もしくは“今”の若い世代が嫌悪する、“老害”という存在に自分自身がなってしまうことにもつながり得ます。)
結論として思うのは、この種の議論には関わり合いにならず、自分自身が出す成果にフォーカスしたいものだ、という点です。
精々言うのであれば、現代人が精神的に疲れやすい状況に置かれているのは確かなので、時代時代にあった身心のケアは図りたいものだ、という点位でしょうか。
散歩中、唐突にアイデアが閃いた経験を持っている方は多いでしょう。
多くのクリエイティブな偉人も、散歩を好んでいた人は実際に大勢いらっしゃいます。
そして、散歩/ウォーキングがクリエイティブな発想を生み出す、ということは科学的にも正しいようです。
運動とクリエイティブな発想の関係
スタンフォード大学の研究者が運動とクリエイティブな発想の関係について調査しました。
実験では176名の大学生や社会人を対象に、創造的思考を測定するためのタスクを実施しました。
実験では、トレッドミル(ランニングマシン)を使用した屋内での歩行、(車いすを利用した)屋内で着座したままの歩行、屋外での歩行、屋外での車いすを利用した歩行、という条件が設定されました。
また、着座したままや、歩いた後に車いす利用など、様々な組み合わせが設定され、創造性を測定するタスクが行われました。
創造性を測定するタスクは、(4つの実験が行われ、その内)3つの実験で発散的思考が行われました。
発散的思考とは、多くの可能性のある解決策を探ることで創造的なアイデアを生み出すための思考プロセスや手法のことです。
この実験では、与えられた物に関して、別の用途を考え、また他の被験者が発想していないものを新規性のある回答とするとともに、回答が適切であるかも評価されました。
4つ目の実験では、質問されたフレーズから複雑な類推を行うタスクが課されました。
その結果、3つの実験で、歩いている時の方が(例えトレッドミルであろうと)、創造的な成果が平均60%も増加することが示されました。
また、4つ目の実験でも、歩いている人の100%が1つでも斬新な例えを出せたのに対し、着座したままの場合、50%ほどの被験者が質の高い例えをだすことができませんでした。
つまり、どうやら散歩/ウォーキングはクリエイティブな発想を生み出すのは、科学的に正しいようだ、と言えそうです。
ただし「発散」に限る
ただし、上述の知見は留意点があります。
ブレインストーミングのような「発散」には効果があっても、「収束」や「集中」には効果がないようなのです。
研究では、被験者に単語連想課題(3つの単語を組み合わせて複合語を作る課題で、洞察力や集中力を測定するために使われる)を課した所、歩くグループは着座グループと同程度、もしくは軽度に悪い結果が示されました。
また、因果関係が不明である点や創造性の上昇効果が他の運動ではどうなのか?等、わかっていない点が多くあることにも留意が必要です。
ただ、別の研究でも、適度に疲労していたり気が散った環境の方が、「発散」の面でプラスであることが示されています。
こちらの研究では、「少なくとも革新的なアイデアや創造的な解決策を求める人にとって、最高の状態でパフォーマンスを発揮することは過大評価されているかもしれません。」としています。
これらの知見を現実の仕事において適用するとしたら、「収束」や「集中」を要するタスクは、パフォーマンスが可能な限り良い状態に行い、「発散」に関連するタスクについては多少の疲労がある状態や気が散るような状態に行うことが良い可能性がある、と言えます。
1日のスケジュールの組み方に、一考を入れる価値があるかもしれません。
知覚の優位性:VAKモデル、という考え方が登場したのは1900年代後半のこと。
まだ歴史は浅いにもかかわらず、一定の浸透が見られる考え方になっています。
しかし、この学習スタイルの考え方が、本当に科学的に正しいのか、疑わしい点があります。
知覚の優位性:VAKモデルとは
VAKモデルとは、人が情報を得る手段である五感に関して、3つに分類したものです。
V(Visual:視覚)、A(Auditory:聴覚)、そして、触覚、味覚、嗅覚を包括したK(Kinestic:触覚・身体感覚)の3つであり、それらの頭文字をつなげてVAKモデルと言われるようになりました。
この情報入手の手段が人により得手不得手があるとして知覚の優位性という考え方が出て、教育分野における「学習スタイル」として取り入れるようになりました。
この学習スタイルが言いたいのは、人は自分自身にあった学習法で勉強をすると効率よく学習できる(から現在の画一的な教育は多くの人たちに適合していない)、というものです。
しかし、この学習スタイルの考え方には誤解が存在します。
学習スタイルの誤解
教育分野の研究で、この学習スタイルに関して調査が行われていますが、メタ的分析で多くの学習スタイルによる教育方法に科学的根拠がないこと、学習スタイルに関して行われた研究が大体において実験的方法がとられていないことが指摘されています。
そして、少なからず実験的方法でもって行われた学習スタイルの検証では、学習スタイルを否定する結論を示唆しています。
(下で示すリンク内でも、学習スタイルについて否定する追加実験が紹介されている。お好みの学習方法はあるにせよ、どの学習方法を選択したとしても、習熟度に有意な差はないとのこと。)
人が情報を得る手段としてのVAKモデルは確かに考え方として間違ってはいないのですが、どこかでこの考え方が捻じ曲がって解釈され、教育分野に適用されたのでは?と科学者は指摘しています。
それでは、どうしてこの学習スタイルの考え方は誤解をはらんだまま広まってしまったのでしょうか?
研究者は、教育者、そして学習者双方にとって救い(のように聞こえる)だから、としています。
つまり、教育者にとってみれば、(少なくとも)自分たちのとっている教育方法自体には間違いはなく、学習者の学習スタイルと適合していないからだ、と受け止めることができます。
学習者にとっても、自分の学習スタイルと、教育者の学習方法がマッチしていないからで、マッチする学習スタイルをとる教育者や学習スタイルを選択すれば、自分はまだ伸びると思えるからだ、ということです。
これでは、単純な誤解にとどまらず、害悪でしかありません。
VAKモデルをベースにした最適な学習スタイルがあるという考え方は、早々に払拭する必要があるかもしれません。
異なる学習スタイルを取り混ぜるのは有効
ただ、V(Visual:視覚)、A(Auditory:聴覚)、そして、触覚、味覚、嗅覚を包括したK(Kinestic:触覚・身体感覚)の3つを用いた学習方法が決して悪いことのようには思いません。
こちらの記事でも言及したのですが、学習において重要な反復学習について、異なる方法で学習をすると効果的である、という研究があります。
つまり、教科書による文字情報のインプット、ポッドキャストなどの音声情報、図解などの映像情報などを交えて学習すると、記憶の定着が強化するとされています。
正にVAKモデルの考え方です。
さらにキーボードによるメモより、手書きによるメモの方が長期的な記憶の定着度が高い、という研究もあります。
紙とペンを用いて、文字を自分の手で書く、というアクションが脳に多くの刺激を与えているのかもしれません。
これらのことを踏まえると、重要なことは「自分に最適な学習スタイルが存在する」と考えるのではなく、様々な学習スタイルを用いて複合的に脳に刺激を与えよう、ということだと考えられます。
昨今はYoutube動画をはじめ、様々な映像コンテンツが増えています。
これらは決して悪いものではありませんが、従来からの学習方法である本を読む、ノートに学んだことを要約しながらメモを取る、学んだことを実践する、といった方法も交えて学ぶ意識が必要でしょう。
現代社会において、長時間の「座りっぱなし」をせざるを得ない人は多いでしょう。
そして、この長時間の「座りっぱなし」は健康面に様々な悪影響を与えるとされています。
そのため、一部ではスタンディングデスクがブームになっている程です。
今回は、この長時間の「座りっぱなし」の悪影響と解消方法について見ていきます。
長時間の座りっぱなしは健康に悪影響を与える
現代は、人々にとって圧倒的に座る時間が長い時代です。
この「座りっぱなし」は、一般的に健康に悪影響を与える、と言われています。
いわく、椅子に座る時間が短い人と座りっぱなしの人を比較した時、座りっぱなしの人には次のようなリスクが出るとのこと(下記のようなリスクが%分、増大するとのこと)。
- 糖尿病:112%
- 心血管系疾患:147%
- 心血管系による死亡:90%
- 原因不明の死亡:49%
そのため、頻度高く生活の中に運動を取り入れることが推奨されています。
その悪影響は運動で解消できるのか否か?
それでは、その運動の効果ですが、一部の研究では、散歩程度のジョギングでも、この座りっぱなしのによる悪影響を解消できるとしています。
実験では、加速度計で記録されたカウント数/分を基に、座位(100未満/分)、低強度(100~499/分)、軽強度(500~2019/分)、中等度/強度(2020以上/分)の活動の継続時間を定義し、それぞれの死亡率について調査がされました。
その結果、低強度や軽強度で、相当な死亡リスクの解消につながることが示されました。
(中等度/強度はデータ数が少なく、統計的な結果を示せなかった。)
また、座る時間を減らして、何かしらの運動を短時間取り入れるだけでも、一定の効果があることも示されました。
ただ、運動によるリスク緩和効果について、疑念を示す研究も一部で出ています。
つまり、運動で座りっぱなしによる悪影響を解消できるか、一定の効果があるのは確かなようですが、研究途上だ、というのが現時点での答えのようです。
一方で悪影響自体が無いという研究も
ただ、一方で本当に座りっぱなしにより悪影響があるのか?というそもそも論を指摘する研究もあります。
研究では、様々な「座りっぱなし」の行動パターンと、運動パターンについて数千名の被験者を対象に調査を行いました。
その結果、長時間の「座りっぱなし」と死亡リスクには相関が見られない、ということが示されました。
シンプルに、「座りっぱなし」が悪いのではなく、「運動不足の状態が長く続くこと」に問題がある、と研究では指摘されています。
(その意味で、上述の「その悪影響は運動で解消できるのか否か?」で示した肯定的な結論を支持しています。)
オフィスワーカーにおいて、長時間、座りっぱなしになってしまうことは致し方がないことでしょう。
精々、定期的にストレッチ程度でも良いので、軽い運動を取り入れる、ということができる程度です。
そしてこれは一つの有効な解決策です。
また、健康のため意図的にまとまった運動の時間を確保し運動不足解消に努める、というシンプルな解決策も有効と総合的には考えられ、要検討事項です。
何はともあれ、生活の中で身体を動かすことを意識づけることが重要であると言えます。
最近は健康効果等々をうたい、スタンディングデスクが一部で流行しています。
効果としては、立っているが故に座りっぱなしよりカロリー消費が多い、集中力を維持できるといったものが語られています。
果たして、これらの効果は科学的に正しいのでしょうか?
カロリー消費効果は確かにある
デスクワークを行っている人にとって、長時間、席に座り仕事をし続けることは当たり前の風景です。
場合によっては、間に挟む休憩や会議の移動時間以外、座りっぱなしということもあるでしょう。
一部の研究では、1日に数時間座りっぱなしだと長期的な死亡リスクが大幅に増大する、という結果も示唆されています。
そのような背景もあり、スタンディングデスクが一部で流行しています。
そして、カロリー消費という観点で見ると、スタンディングデスクの効果は確かにあるようです。
こちらで紹介されている研究では、スタンディングデスクとカロリー消費との関係について調査がされました。
数百名の学生に、スマートウォッチを装着してもらい、普通の座席、スタンディングデスク別にカロリー消費の傾向を測定しました。
その結果、スタンディングデスクを選択した肥満、もしくは肥満気味の学生に関しては、普段よりカロリー消費が多いことが示されました。
また、別に行われた調査で、長期的に集中力が維持される傾向も示されました。
認知力向上の効果もどうやらあるっぽい
上述の研究では、集中力の維持についても効果があることが示唆されましたが、こちらの研究では認知機能についても調査されています。
数十名の学生を対象にスタンディングデスクを使用してもらい、認知機能を測定するテストを受験してもらいました。
その結果、スタンディングデスクの使用により認知機能の向上がある、ということが示されました。
まだ研究途上であり言う程のものではないかもしれない
ただ、これらの研究にはまだまだ課題があります。
フィンランド労働衛生研究所で行われたメタ研究では、スタンディングデスクが健康に良いという証拠はないとしています。
論文が指摘している点として、多くの研究が規模が対象が小さい、期間が短い、実験が無作為化されておらず統計的に問題がある、等の理由があげられ、それにより、効果があると言い切るには科学的に不十分としています。
実際、1番目に紹介した研究は、カロリー消費の増大効果は「肥満」の学生で見られており、通常の学生では顕著ではなかったこと、座る椅子は自由に選択できて実験の設計が十分にコントロールされていないといった点が指摘できます。
更に、スタンディングデスクにより増大するカロリー消費も、精々、間食で食べるお菓子をちょっと我慢すれば良いレベルのものです。
2番目の研究も、そもそも研究の前提が「予備的調査」であり、対象群の設計等が不十分であることは研究者も認めています。
スタンディングデスクの効果が全くない、とは思いませんが、現状では言う程の効果はないのではないか?と考えるのが自然のように思います。
少なくとも、スタンディングデスクという、通常のデスクより高額なものに投資する位であれば、日常生活に散歩程度でも良いので運動機会を増やす方が効果的であるように考えます。
運動不足はシンプルに身心に悪い、という原則に立ち返り、当たり前のことをするのが現時点では良いと言えるでしょう。
リモートワークが当たり前に定着し、多くの人が満足をし、また今後も継続したい、という意向を示しています。
一方で、ネガティブな声も聞かれており、特に“コミュニケーション”“雑談”については、解決が難しい問題として、度々言及されています。
この問題について、どのように考え、クリアしていくのがよいでしょうか?
リモートワークに多くの人は満足し、継続したいと考えている
新型コロナウイルス感染症が世界的にまん延して、リモートワーク(テレワーク)も同様に浸透した際の多くの人々の反応としてリモートワークに満足すると共に、今後も継続したい、という意向が示されていました。
この傾向は、最近も変わらず、概ね約8割の人々が、(その賛成の度合いはともかくとして)リモートワークに肯定的です。
一方で、当然にいくつかのネガティブな声も聴かれています。
リモートワークに対するネガティブな反応
長時間労働
ネガティブな反応の例として、長時間労働になる傾向がある、というものです。
リモートワークが定着する前は、従業員がサボるのではないか?という懸念が経営者や管理職から聞こえましたが、結果はむしろ逆です。
働いている姿が直接見えないテレワークでは、姿勢ではなく結果での評価でないと難しく、成果を見えるように示そうとして、むしろ頑張ってしまう人が増えたようです。
その結果として、長時間労働、というネガティブな影響が出ました。
社会参加意識
他にも、一人で孤独に働いているが故の社会参加意識の希薄化とそれによるメンタル不調も指摘されています。
仕事をする目的は、端的に言えばお金、もっというと生活の糧を稼ぐためのにあります。
しかしながら、お金のためだけに働いているわけでもないのが人間です。
社会貢献や、社会の中に存在しているという自己認知、コミュニティに属すことによる存在意識等、人として社会参加していることを感じられるのは非常に精神的に重要です(ありていに言えば自己肯定感の話)。
意義のある仕事をし、成長をし、またそれによりさらに社会的ニーズを満たすことが精神的健康の基盤となり、また人生価値の向上にもつながります。
リモートワークは、この社会参加意識という観点において、どうしても阻害する効果があります(物理的に社会と距離をおくため当然の話)。
自律意識による負担
オフィスに出社すれば、必然的に働かなければならない環境に囲まれる形となりますが、自宅は違います。
高い自律意識を持ち、自己制御を行う必要があります。
そこで、例えば次のような記事では、可能な限り「日々の生活スケジュールを厳格に決めて、それを守ること」、つまりは「ルーチンワークをこなすこと」を推奨しています。
一方で、過剰な自己制御は精神に負担をかけるという研究もあります。
筋肉を酷使すると身体に負担がかかるのと同様、精神も酷使すればメンタルヘルス等に悪影響があるからです(自己制御のためにも精神エネルギーは消費され、リソースは減少していく)。
他にも様々な問題が
他にも、いわゆる“Zoom疲れ”について指摘する声も聞かれます。
例えば運動不足があります。
リモートワークでの仕事は、会議もZoomのようなWeb会議システムを使うこととなり、オフィス内での移動が起きません。
ずっと座りっぱなしの状態になり、運動不足を誘発し、身心に悪影響を与える可能性があります。
他にも、プライベートの侵害や、言語以外のコミュニケーションにも強く集中しなければいけないが故の認知負担、自分の顔も見続けたりすることのストレス等々、様々なストレスが指摘されています。
Web会議は、闘争(逃走)反応を誘発し、ストレスを生む、という指摘もあります。
これらは、これまでの生活スタイルの変化により起きているものなので、一定慣れの問題もあります。
つまり、(文化の醸成と共に)時間が解決する要素も多分にあるでしょう。
しかし、残っている問題があります。
それが、コミュニケーション問題であり、特に“雑談”問題がクリティカルです。
一般的に、雑談はクリエイティビティやイノベーションの源泉であると言われており、この領域を重視する先進的な企業にとっては死活問題であるとされています。
(なお、私は諸々の理由により、イノベーション云々について疑わしいと考えています。)
マイクロソフトで行われた実験
それでは、リモートワークにより、働く人々のコミュニケーションの状況は、どのように変化したのでしょうか?
マイクロソフトを実験場とし、このコミュニケーション問題について研究が行われました。
内容をいくつかピックアップすると次のようになります。
- リモートワークは相互コミュニケーションを減少させる
- リモートワークは会社としては非公式な協業ネットワークを形成していた構造的空隙を減少させる
- リモートワークは既に信頼関係のある強いつながりの集団とのやり取りを強化させる(ことにより、強いつながり同士では情報交換の効率が向上する)
- 弱いつながりの集団(新入社員や直接の仕事のつながりがない部署等)とのやり取りは減少させる
ようは、リモートワークにより集団がサイロ化してしまう、ということです。
そのため、成果を出す人材になるために、強いつながりのある集団とは別に、新しいつながりを構築していく必要があるとしています(新しいコミュニティ、異なる価値観との接触、新鮮な情報の入手)。
“雑談”が減少、構造的空隙の減少や組織のサイロ化が進み、クリエイティビティやイノベーションの源泉も失われていく、という仮説が是であるならば対処が必要です。
(なお、研究は、mtg等が減少し、チャットやメールでのコミュニケーションが増加することにより、本質的に無駄な時間が削減され、確かに生産性が向上している点には認めています。)
新しいコミュニケーション能力が求められているか?
それでは、具体としてどのような対処が必要でしょうか?
リアルタイムコミュニケーションを求めるマインドを捨てる
まず、考えられるのが意識改革(であり文化醸成)です。
例えば、そもそもとしてコミュニケーションにリアルタイム性を求める、というマインドを捨てる点が指摘できます。
Zoom等のWeb会議システムを利用し、リモートワーク下であってもリアルタイムに顔を突き合わせてコミュニケーションを取れるように整備をしたとしても、そこで行われるコミュニケーションは、直接集まって行うコミュニケーションとは別のものです。
例えば、Web会議システムでは、一度に話すことができるのは一人のみです。
実際の会議や集団での雑談では、複数の人が別の人とコミュニケーションを取ることが珍しくありません。
真面目な会議において、隣の人と、ちょっとしたやり取りをすることもあるでしょう。
リアルタイムチャットも、入力のタイムラグ等が必然的に発生し、直接オフィスで話しかけるような即時性を求めることは不可能です。
また、やり取りをオープンにすることを避ける傾向も容易に推測できます(プライベートDMを多用しますよね?)。
つまり、技術的にも、人という性質を鑑みても、リモートワーク下においてリアルタイムコミュニケーションを求めるのには無理があるのです。
リアルタイム性がないコミュニケーションを前提とした、情報共有体制の構築とコミュニケーション文化の醸成が必要です。
主体性と戦略性をもったコミュニケーション姿勢
他にも次のような提案がされています。
内容をまとめると、イノベーションのために「知の探索」と「知の深化」が必要であり、また全くのゼロからイチが生まれることはない、と。
そして、そのために「よく話す人と、意図的に雑談の時間を作る」「全く話したことない人と話す機会を増やす」としています。
つまり、上述のマイクロソフトの実験で示された提案と同様のものです。
ここでのポイントは、主体性をもって取り組むこと、戦略的にコミュニケーションを取ること、です。
批判的に言うならば、具体の解決策は無い、ということであり、肯定的に捉えるならば、具体の解決策は「主体性」「戦略的」なコミュニケーション能力を身につけよう、と言えるでしょう。
上述の、そもそもリモートワーク下においてリアルタイムコミュニケーションを求めるには無理がある、とした点においても「情報共有体制の構築とコミュニケーション文化の醸成が必要」としましたが、この具体の方法論については、確立されたものがありません。
「主体性」「戦略的」なコミュニケーション能力を身につけよう、という話も高いリテラシーと文字通りの主体性が問われます。
これらについて、確かに多くのアドバイスやソリューションが提案されていますが、クリティカルに解決する、科学的に効果が実証された方法は、(繰り返しますが)確立されたものがないのです。
間違いなく言えることは、手探りの模索が必要であろう、という点です。
すでに古典となっている研究では、短・中期的には組織文化と戦略が適合している企業の業績は高いが、長期的には環境変化に上手く対応できるか否かによって業績が左右される、としています。
(Kotter, J. P. and J. L. Heskett (1992) Corporate culture and performance, The Free Press)
そして、環境変化に上手く対応するためには、手探りの模索が必須です。
私は、「手探りの模索」こそが、リモートワークの“コミュニケーション”“雑談”問題をクリアするための(現時点での)最適なソリューションであると考えます。
パフォーマンスを高くしたい、という望みは多くの働く人共通のものでしょう。
その内の阻害要因の一つが「気が散る」というものです。
ここでは、気が散る要素を如何に排除することが重要か、示します。
スマートフォンはそこに存在するだけで人のパフォーマンスを下げる
スマートフォンが身近になり、小さな端末で情報入手やエンターテインメントを楽しむこと、そして世界中の人々とのコミュニケーションが容易に図れるようになりました。
生活の中で、常にスマートフォンが側にある、という人も珍しくないでしょう。
しかし、このスマートフォンは人のパフォーマンスに悪影響を及ぼす可能性について、知っておく必要があるかもしれません。
こちらの研究では、スマートフォンはそこに存在するだけで人のパフォーマンスを下げることを示しています。
実験において数百人の被験者を対象に、集中力を要する課題を与える前提で、スマートフォンの存在がどれだけパフォーマンスに影響を与えるのか?が調査されました。
具体的には、被験者をグループ分けし、スマートフォンを机の上に置く、ポケットにしまう、バッグにしまう、別室に置く、シチュエーションを設定しました。
その結果、別室に置く > ポケットにしまう ≒ バッグにしまう > 机の上に置く、という順番でパフォーマンスが示されました。
また、追加の実験が行われ、スマートフォン依存に対する意識調査を実施し、同様の実験を行いました。
その結果、依存症であるという自覚が強い人ほど、パフォーマンスが低いことが示されました。
つまり、スマートフォンの存在が人の集中力を奪い、パフォーマンス低下を招いているのです。
気が散る要素がパフォーマンスを下げる可能性
こちらは別の研究です。
この研究では、数万人の外科医対象に約100万件の手術について、術後30日死亡率が調査されました。
患者は65歳~99歳の高齢者で緊急外科手術が対象です。
その結果、外科医の誕生日に行われた手術が約0.2%あり、その誕生日の30日以内の死亡率が約7.0%であったのに対し、全体平均では5.6%であることが示されました。
つまり、外科医の誕生日は、手術のパフォーマンスが明確に低下するのです。
これは外科医のライフイベントという、仕事とは関係のしない要素に気がとられてしまった可能性が示唆されます。
オープンオフィスはパフォーマンスを下げる
別の記事で、オープンオフィスが如何に従業員の生産性に影響を与えるのか、ネガティブな影響について示してきました。
オープンオフィスが従業員のパフォーマンスを下げる要因は端的に言って「気が散る」からです。
そのため、パフォーマンスだけにフォーカスした場合に、最も良いオフィス形態は「十分な広さがある個室」であることが示唆されています。
以上の通り、「気が散る」環境は、人のパフォーマンスに多大なる悪影響を与えます。
パフォーマンス高くしたいのであれば、スマートフォンの利用を制限したり(例えば通話のようなコミュニケーションツール以外、使えないような設定にする等)、騒音や過剰な光が無いような環境を構築する必要があります。
人の顔があると、それに気がとられるという研究もあるので、例えばどこかのアイドルのポスターや、その類の装飾品等も良くないと考えられます。
ずっと集中し続けることは土台無理な話なので、オンオフをスパッと切り替えるようなイメージで、パフォーマンスを高くしたい時には「気が散る」要素を徹底排除することが重要でしょう。
マインドフルネスという言葉は、近年の情報化社会や悩み多き生活を背景に、急速に浸透しています。
数多くの研究が、マインドフルネスが身心の健康や認知能力の向上等にプラスの影響があるとしていますが、実は批判も多くあります。
今回は、このマインドフルネスについて、実は現状でわかっていることはそんなにないよ、という話をします。
マインドフルネスとは
マインドフルネスとは、「今、この瞬間の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、とらわれのない状態で、ただ観ること」と定義され、現在において起こっている経験に注意を向ける心理的な過程であり、瞑想およびその他の訓練を通じて発達させることができる、とされています。
(なお、この定義自体が明確に幅広く合意されているわけでもない。)
現代は情報化社会であり、また多くの悩みが生活を取り巻く、そのような背景もあり、お手軽な成功のためのツールとして急速に浸透しています。
また実際に、多くの研究が身心の健康や認知力の向上等にプラスの影響がある、という報告をしています。
研究によっては、多幸感を得られたり、加齢に影響を与える染色体の劣化防止にも寄与する、という報告を行っているものもあります。
それでは、何が問題なのでしょうか?
マインドフルネスの問題点
こちらの論文では端的に「科学的な裏付けがほとんどない」と指摘をしています。
マインドフルネスや瞑想に関する研究の多くは、研究や実験の設計が不十分であり、またマインドフルネスというもの自体の定義も明確でなく、プラシーボ効果を排除するための対象群もないことが多いとのことです。
ようは、科学的根拠よりも、誇大広告の要素が大きい、もっと言うと金銭のために過剰にマーケティングされている、と言及されています。
- マインドフルネスに基づく研究のうち、対照群を含む臨床試験で検証されたのはわずか9%程度
- 複数の大規模なプラセボ対照メタアナリシスでは、マインドフルネスの実践はしばしば印象的な結果をもたらさない
- 2014年に行われた47件の瞑想試験のレビューでは、3,500人以上の参加者を対象に、注意力の向上、薬物乱用の抑制、睡眠の改善、体重のコントロールなどに関する効果を示す証拠は基本的に見られなかった
全く役に立たない、という意味ではない
補足をすると、研究者たちは「マインドフルネスが役に立たない、ということを意味するものではない。」としています。
つまり、現時点でマインドフルネス研究が示している多くのプラスの効果について、科学的な厳密性が不足している、ということです。
研究者たちは「実験介入による悪影響(プラシーボ効果)のモニタリングを含んだ研究が25%以下であることを懸念しているが、この分野が前進するにつれ、この数字が増加することを期待している。」ともしています。
これらの話をまとめると、マインドフルネスが身心の健康や認知能力の向上に寄与することは確かなのでしょうが、それがどの程度のものなのか、実際には不明と言えます。
現状では、実践をするにしても、過度に依拠しないようにするのが良いと感じます。
著名なマルコム・グラッドウェル氏が提唱した1万時間の法則については、知っている人も多いでしょう。
また、この1万時間の法則が実は間違いである、という話も同様に知られるようになってきました。
今回は、学習は量も大事だけれども質も大事というシンプルな話についてです。
1万時間の法則の間違い
1万時間の法則とは「どんな分野でも、だいたい一万時間程度継続してそれに取り組んだ人は、その分野のエキスパートになるという経験則」のことです。
科学的研究をベースに提唱されたために、あたかも科学的事実かのように広まりましたが、近年は誤りである、という研究が明確に出ています。
プリンストン大学が行った88の研究のメタ分析では、様々な分野でのパフォーマンスの差に練習が占める割合はわずか12%であることを示しています。
そして、その差は分野により大きく異なり、例えば次のような結果が示されています。
- ゲーム:26%
- 音楽:21%
- スポーツ:18%
- 教育分野:4%
- 多くの様々な職業:わずか1%
1万時間の法則が適用されるのは、その領域が変化をしない安定した構造になっており、練習の要素が大きいウェイトを占めている分野に限られる、としています。
(例えばクラシック音楽やチェスなどの、ルールの変化が起きず、クローズな世界。)
ここでポイントなのは、練習の量が意味がない、という話ではなく、他にも重要な要素があるはずだ、という点です。
では、その重要な要素は何か?というのが練習の質です。
質の高い練習(学習)のための知見
当サイトでは、質の高い練習(学習)のための知見について、いくつかの記事を掲載しています。
是非、これらも参考にしてください。