最近のマナー関連の本や解説サイトを見ていると、電話やWeb会議応答における「もしもし」という言葉が、ビジネス用途としては「マナー違反」とされているようです。
「申す申す」から来ている略語であり、上から目線だ、適切な言葉づかいではないから、らしいです。
しかし、これは明らかにマナー講師による「作られたマナー」です。
ここでは、なぜ「もしもし」はマナー違反ではないのか、そして「作られたマナー」に関して、解説していきます。
忙しい人向けまとめ
- 「もしもし」は電話が日本で使われ始めた電話交換応答における「ルール」が起源
- マナー違反だとする理由は、敬語ではないため、略語のため、若者言葉のだめ、の3点
- どれも、ロジック的に破綻しており、ナンセンスな主張である
- 世の中には、マナー講師が職業を失わないための「作られたマナー」が存在する
- マナーの本質は、こちらの不手際によって「相手に不快感を与えない」こと
- 相手の時間を奪わないようにする(電話しない、リモートで済むものはリモート)「礼儀2.0」を取り入れたい
「もしもし」の誕生経緯
まず、「もしもし」の誕生経緯から見ていくのが良いでしょう。
日本の電話の父的な人物として「加藤木重教(かとうぎしげのり)」という方がいらっしゃいます。
その加藤木氏に関して書かれた書籍には、次のような記載があります。
「もしもし」の誕生
国立国会図書館「重教七十年の旅」
1890年(明治23年)12月16日に東京の電話交換が始まった。
それに先だって電話交換の交換実験が行われた際の説明書きには
『ここにおいて受容者は、聴音器を両耳にあて、器械の中央に突出する筒先を口にあて、まず「おいおい」と呼びにて用意を問い合わせ「おいおい」の声を発して注意し、先方よりの承諾の挨拶あるを聴音器にて聞き取り、それより用談に入るなり』
とあるので、一番最初の問いかけの言葉は「おいおい」だった。
(中略)
この当時「おいおい」に対しての受け手の応答は「ハイ、ヨゴザンス」に決定されていた。もしもしとは「申す申す」が変化して出来た言葉だが、当初は男は「おいおい」女は「もしもし」だったらしい。
「もしもし」に統一されたのは明治35年頃と言われている。
この「もしもし」を考案したのは、電話を日本で設置する際に研修ということで、明治23年にアメリカに渡った加藤木重教だと云われている。
その時、アメリカの電話では「ハロー/Hello」と言う言葉を使っていたが、この言葉を説明する日本語がどうも判らない。
そこで、「もしもし」という言葉を必死に考え出したものが、現在まで続いている。
つまり、電話交換における定められた「ルール」であり、一種の「プロトコル(一種の儀礼)」であったのです。
なお、今現代ですと、知らない方が多いかもしれませんが、昔の電話は「電話交換手」という方が電話の中継業務を行っていました。
電話をしたい人とこの電話交換手が、円滑に電話応答を行うための「ルール」が必要だったのです。
「もしもし」はマナー違反だとするロジック
さて、それでは、ここ最近「もしもし」がマナー違反だとするロジックに関して確認していきます。
いくつかのマナー解説サイトを読んだものをまとめると、敬語ではないため、略語のため、若者言葉のだめ、の3点が主張になるようです。
- 「もしもし」の語源は、「申す申す」が変化してきた言葉であり、敬語では無いため
- 「もしもし」の語源は、「申す申す」の略語であり、略語は失礼にあたるため
- 「もしもし」はいわゆる「若者言葉」であるため
しかし、「もしもし」の誕生経緯から入り、ロジックを検証する限り、この全ての主張は破綻していることは明確でしょう。
「もしもし」はマナー違反だとするロジックへの反証
まず、①の「敬語では無いため」ですが、「もしもし」が電話応答における定められた「ルール」であり、一種の「プロトコル(一種の儀礼)」であるため、そこにいちゃもんをつけること自体がナンセンスです。
そもそもの「ルール」から成立した慣習なのだ、ということは、前提として考えた方がよいでしょう。
既に、その用法自体に「ルールに則っている」という敬意を含有しているのですから。
②の「略語だから」ですが、ビジネスシーンにおいて、略語があふれていることは言うまでも無いでしょう。
略語は失礼だから使用してはいけない、ということならば、ビジネスコミュニケーションがかなり煩雑なものになります。
契約書の甲乙丙も略式なので、使っちゃいけないことになってしまいますね。
③の「若者言葉だから」ですが、これは電話交換の歴史を鑑みれば若者言葉に該当しないことは明確です。
100年以上の歴史がある用法であり、電話交換における口語のプロトコルなのですから。
つまり、どの主張もロジックが破綻しており、ナンセンスとしか言いようがないのです。
それでは、なぜこのようなナンセンスなマナーが出来上がってしまうのでしょうか?
それは「マナー講師」の存在が疑われています。
作られたマナー
マナー講師は、自分たちの職が無くならないようにするために、新しいマナーを発明していく必要があります。
それでAmazonや書店、マナー解説サイトで「新マナー」や「意外と知られていないマナー」、「誰も知らないマナー」、「日本人が知らないマナー」のような、タイトルの本や記事などが登場する形になります。
もう、意味不明です。
新しいとか誰も知らないんだったら、マナーでもなんでもないじゃん、、、
世の中にはこのような作られたマナーがたくさんあります。
比較的最近見かけた作られたマナーですと、下記のようなものがありました。
これらはまだ一部で、他にも存在しており、非常に頭が痛くなります。
×が作られたマナーです。
徳利の注ぎ方
×「お酒を注ぐとき、注ぎ口からお酒を注ぐのは『円(縁)を切る』から失礼」
〇「機能美として注ぎ口があるのだから普通に使えば良い(徳利製造メーカーより)」
緑茶はお祝いのお返しに贈ってはいけない
×「緑茶はお祝いのお返しに贈ってはいけない、葬式を連想させるため」
〇「問題ない、伝統的にお祝いのお返しに贈られてきた」
トイレットペーパーを三角におる
×「トイレ使用後にトイレットペーパーを三角におるのがマナー」
〇「トイレットペーパーを三角におるのは清掃終了のサイン、衛生的に使用者がおってはいけない」
江戸しぐさ
×「江戸しぐさ」
〇「江戸時代に、江戸しぐさというものは無かった」
出されたお茶を飲んではいけない
×「取引先で出されたお茶は飲んではいけない、相手の条件を全部飲むという意味になるから」
〇「いただきます、と言い飲んで、最後帰る際に、ごちそうさま、と言う」
訪問先でドアのノック回数は3回が正しい
×「ドアノック2回はトイレの回数と一緒だから失礼」
〇「2回で十分」
最後に
マナーの本質は、こちらの不手際によって「相手に不快感を与えない」ことであり、「作法」そのものには価値が無いはずです。
わけのわからないマナーを量産し、一部の人によるマウント取りのネタにしたり、働きづらさを助長するのは本質ではないでしょう。
マナーとは移り変わるもので、人の気持ちはロジックではなく感情で整理されるものでもあるため、「もしもしはマナー違反」だと言う人に「それは間違いですよ」と言うのも違います。
営業の場面などで、マナー違反だと勘違いしている人がいるかもしれない中、わざわざ使うリスクをおかすことも無いでしょう。
それでも、わざわざ助長させたいとは思いません。
相手が使ってきたとしても、こちらは気にしない、というスタンスが良いでしょう。
繰り返しますが、マナーの本質は、こちらの不手際によって「相手に不快感を与えない」ことにあると理解し、わけのわからない「作られたマナー」に踊らされないようにしたいものです。
その意味で、取り入れたい「作られたマナー」として、納得感の高さから次のツイートを紹介します。
礼儀2.0、いいですね。
これから使っていきたい言葉です。
(おまけ)「もしもしはマナー違反」はいつ頃から?
なお、「もしもし」がマナー違反だとする主張が出始めたのは2004年頃からです。
まだメジャーでは無いですが、聞く頻度が増えたのはここ数年でしょうか。
20代の方は、電話を使用する機会が増えたのが、仕事を初めてからになるでしょうから、かえって「もしもしはマナー違反」には違和感が無いかもしれません。
(おまけ)マナーの起源から考えると、、、
貴族とかそういう「地位」が存在した時代、マナーは、その地位の高さを示すもので、地位が高い人たちにとっては重要視されていたものでした。
ようは、高い教養、高いマナーを備えることが、貴族としての地位を示す、平民や自分より各が低い貴族に対する一種のマウント機能を果たしたのです。
その観点で考えると、次々に新しいマナーを発明し、もしくは取り入れ、それを知らない人たちに対して誇示をすることは、ある意味において正しいと言えます。
決して見習いたくは無いですが。
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