定期的に話題にあがる、とあるテーマがあります。
“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?というものです。
特に昨今は、世代間の格差も広がっており、ネット上で度々議論がされています。
最近ですと、「オレたちの若い頃はもっと働いてた」と言っても資料のホチキス留め対応とキンコーズに駆け込む的なことに時間を使っていて、それは実のある働き方だったのか?という指摘を目にしました。
今回は、この種のテーマについて思うことを書いていきます。
“労働時間”自体は大きな変化がない
まず、大枠のデータですが、トータルとしての“労働時間”は今も昔もそれほど大きな差はありません。
(ここで言う“労働”とは、家事・育児・介護にかかる時間も含めた、大きな意味で可処分時間を取られるもの、としています。少なくとも、現代の認識で家事・育児・介護を仕事では無い、とは捉えないでしょう。)
家庭や職業、住む地域等々で当然に状況は異なるにせよ、マクロ感では、数十年前も今も、同じようなイメージです。
では、何故、“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?という話題が出るのでしょう?
(「今の若者は云々」という話は、古今東西共通の話題なので、それはそれとして捉えるとして。)
情報過多社会
まず、“今”と“昔”で大きく異なるのが情報の量です。
「現代人が1日に受け取る情報量は江戸時代の1年分だった!?」という記事が出る位、現代社会は情報に溢れています(言うまでもないですね)。
学術的には「情報爆発」として、現代社会が数十年前に比べてどれだけ情報が飛び交っているのかが議論されています。
その結果として、人々は「情報疲労」を起こし、非常に疲れやすくなっている、という指摘が出ています。
仕事の密度が増している
また、仕事の密度が“今”と“昔”で全く異なる、という指摘もあります。
冒頭の資料のホチキス留めとキンコーズへの駆け込みもそうなのですが、現代では資料をGoogleドライブにアップしてURL共有をすれば、関係者への資料送付が完了してしまいます。
郵送等をするまでもなく、また、わざわざ重い資料をメールで送る必要もありません。
資料の捜索も検索をかければ出てくるため、資料室等々に行って資料を漁る時間も大きく不要になりました。
その資料作りもGoogleスライドを作れば関係者で同時編集ができますし、様々なクラウドサービスと連携すれば、必要なデータも簡易に作成できるようになりました。
パソコンのスペック(仕様ではなく性能の意)もかなり上がっているので、これまで丸1日とかかかっていたデータ処理がものの数分で終わるようなことも珍しくありません。
Web会議を用いれば、1日10件近い“濃厚な”営業も可能ですし、可能な故に訪問の合間のブレイクタイムも取れない場合もあります。
列挙すれば切りがないのですが、この通り、仕事の密度が“今”と“昔”で全く異なるのです。
脳のリソースには限界があるので、こなす仕事の質的量が膨大ならば、当然に疲労感は昔よりも増すはずです。
ITの発展により業務時間外も“拘束”される
(一部、上述の内容と被りますが)近年はITの発展により、即時に濃度の濃い情報をやり取りすることができます。
こちらの記事で触れたのですが、勤務時間外のメールは従業員の身心に悪影響を及ぼす、ということがわかっています。
目に見えない“拘束”は、そのまま見えない労働時間となり、労働者を疲弊させます。
一昔前もポケベルのようなものはありましたが、即時性と拘束性は近年のチャットツールと比較するまでもないでしょう。
ほんの一例ですが、これらのことを踏まえると、現代社会の大変さがわかります。
他にも、人口動態(若者一人あたりの負担の話とか)や経済成長の停滞という面でも考えると、閉塞感について触れることもできます。
未来はもっと大変になるかもしれない、と考えると無意味な議論では?
こでまで見てきたことを考えると、“今”と“昔”はどちらの方が仕事が大変なのか?の答えは“今”であると言えるでしょう。
ただ、ここで端的に言い切ることが適切か?というと違うのではないかとも思います。
大変さと一口に言っても、その時代時代の相対的なものであり、昔は昔の大変さがあったし、今は今の大変さがあると考えるのが適切であると考えられるからです。
また、“今”は“昔”より大変なんだ、という話を上述の事例とロジックを踏まえて言うならば、未来の方が大変である可能性が考えられます。
(AIも発展して、わざわざ人間がやらなくても良い仕事が激減した結果として、また業務効率化も極限まで進んだ結果として、その社会で働く労働者たちの疲弊度合はどれくらいのものになってしまうのか?)
つまり、“今”の大変さを訴えること自体は悪くないのですが、その訴え方次第では未来時点で自分の首をしめることにつながり得ます。
(もしくは“今”の若い世代が嫌悪する、“老害”という存在に自分自身がなってしまうことにもつながり得ます。)
結論として思うのは、この種の議論には関わり合いにならず、自分自身が出す成果にフォーカスしたいものだ、という点です。
精々言うのであれば、現代人が精神的に疲れやすい状況に置かれているのは確かなので、時代時代にあった身心のケアは図りたいものだ、という点位でしょうか。
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