「科学的」と聞くと、苦手意識をもってしまう方が多いかもしれません。
しかし、科学的であることは重要で、逆に非科学的な態度がもたらす危険性は非常に大きいものです。
そして、科学的な態度は、実は簡単なエッセンスで会得できます。
本サイトも、可能な限り多くの情報を収集し、多角的に検証する、科学的なアプローチでもって、ブログ記事を執筆しています。
科学的とは何か?
科学とは「再現性のあること」を指します。
これまで学校で習ってきた「理科」や「化学」「物理学」のような話ではなく、より普遍性の高い意味での「科学」について言及しています。
では、科学的とは何か?
難しく書くと、物事を調査し、その調査結果を整理し、新たな知見を導き出す、そしての知見の正しさを立証するまでの一連の手続きのことを「科学的」と表現します。
最初にある現象を観察した人が、他の人たちにもその現象を観察してもらい、同じ結果が確かめられたとき、はじめてその現象は「確からしい」と見なされます。
つまり、どこかの誰か一人が、「これは正しい」と主張しても、(その時点で十分なデータを持っていても)「正しい」とは言えません。
複数の人の検証が入り、認められることにより「科学的に正しい」と言える状態になります。
(その複数人の人が全員間違っている場合もある。そのため、常に科学の事実はアップデートされ続けている。)
ではここで、複数の人たちによって検証されるにあたり、何が重要となるでしょうか?
それは、です。
ある現象が再現され、正しく確認される。仮説を構築し、数字や数式による定量的な評価が行われる。
こういった客観的な議論を行うための大前提が根拠です。
そして、再現・検証により、より多くの根拠が積みあがっていくことによって、人の知見は蓄積されていき、科学を発展させてきたのです。
科学は印象や直感を極力排除し、可能な限り客観的に現象を捉えようとするからこそ、有用と言えます。
非科学的なことのデメリット
それでは、科学を避けること、非科学的な態度によって起きるデメリットは何でしょうか?
それは端的に言うと、真実ではない情報に踊らされ、意思決定を誤らせてしまうことにあります。
こちらの記事でも書きましたが、認知能力に問題がある場合、人はフェイク/デマに踊らされ、たとえ初期のフェイク/デマの発信者がごく少数であっても、現代社会の構造上、非常に早く、しかも多数の集団行動をゆがめやすくしてしまいます。
実際、非科学的な態度で混乱をしている人を大勢見るはずです。
原発問題であったり、自然災害、そして直近のウイルス騒動もそうです。
非科学的な態度は、自分自身の人生にダメージを与えうる危険性があるのです。
これはビジネスを進める上でも障害が起きえることを意味します。
現代社会は膨大な情報が存在しており、その中身は正誤と玉石が入り交じっている状態です。
適切なデータを正しく抽出し、取り扱わなければ、その意思決定は誤り、ビジネスの成功が遠ざかっていくでしょう。
重要でないことや論理的に正しくないことに人とお金と時間を投下し、業績が伸び悩んでいる会社などいくらでも見たことがあるはずです。
印象や好みで人を評価し、本当はい続けて欲しかったはずの貴重な人財が離職してしまった場面も、いくらでも見たことがあるはずです。
多くの場合、理性でものごとを考えず、感情でものごとを決めていった結果、つまり非科学的な態度がもたらした結果です。
ただ、科学的であることを避けてしまう心理は理解ができます。
純粋に「考えること」は面倒くさいものです。
また、学生時代に「数学」や「化学」「物理学」などに対して、苦手意識を持っていた人は多いのではないでしょうか。
科学的であることは、決して難しいものではありません。
人生のどこで使うのかわからない公式や記号を覚える必要はありません。
ちょっとした心構えだけで十分です。
科学的な態度のための心構え
では、そのちょっとした心構えとは何でしょうか?
そのエッセンスは次の7箇条です。
- 科学に対する拒否感を克服する意思を持つ
- ものごとを数字で捉える
- 数字の単位は確認する(単位の意味がわからなければ調べるか質問する)
- 情報はよくその中身を調べる
- 限られた少ない情報だけで、ものごとを判断しない
- 印象や好みで決めつけない
- ありとあらゆるものごとを疑い、常に「本当にそうなのか?」と考える
書いてみたら、言うほど「ちょっとした」印象ではないですね。
しかし、この姿勢は非常に重要です。
繰り返し書きますが、非科学的な態度がもたらす危険性は深刻です。
日常生活ならまだ良いですが、ビジネスの重要な意思決定の局面ではどうでしょうか?
ミッション・ビジョンの達成のためならば、科学的な態度の会得は容易なはずです。
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